『家業、継がなくていいの?』の一言が導いた。 東京での大学生活・銀行員経験を経て地元へ。大牟田の未来をつくる挑戦。

炭鉱で栄えた街、大牟田。

かつて大牟田市内を走っていた炭鉱電車は、石炭の運搬だけではなく、市民の移動手段のひとつとして使われていたこともあったが、1997年の三井三池炭鉱の閉山とともに、路線は廃止されていった。

そんな炭鉱電車は、今、大牟田川沿岸の北磯町でその息を吹き返している。

炭鉱電車をよみがえらせたのは、大牟田で物流事業を営む白石ホールディングス。

三池炭鉱専用鉄道の起点となった地に「炭鉱電車ステーションゼロ」という施設を新たに整備した。

「2〜3年前までは、よくトラックにも乗ってたんですけど。今は経理とか、会社の管理部門をさせていただいてます。」

丁寧な自己紹介で挨拶をしてくれたのは、白石ホールディングスのグループ会社『白石自動車株式会社』で常務取締役を務める、白石政隆さん。

大牟田で生まれ、東京の大学へ進学すると同時に地元を離れた。

「高校生の時は、遊ぶことに専念してて。」

少し気恥ずかしそうな表情で、当時を振り返ってくれた。

「勉強をしてなかったわけではないんですけど、漠然と日々を過ごしてたんです。これから何がしたいかとかはなくて。」

高校卒業と同時に、専門学校など具体的な道を志して進む同級生を見ながら、このまま適当に進学するのがよくないんじゃないか、とモヤモヤした気持ちを抱いた。

「家を出ないと自分の生活パターンや行動が変わることはないんだろうなって思って、ちらっと、東京とかいきたいなって親に言ったら、すぐに背中を押してくれて。」

そんな勢いで東京進学が決まったものの、東京に行ってみてからはわからないことだらけ。

「引っ越したはいいけど、ガスが出ない。自分でガス屋さんに連絡して開栓してもらわないと、ってそんなことも知らなかったんです。」

日常の「当たり前」といわれることにも苦戦しながら積み上げた生活。

「何から何まで初めてで、一つひとつ自分で調べながらやれたっていうのは、ものすごく人生が変わりましたね。」

人生の転機ともいえる東京での大学生活を経て、新卒で福岡の銀行へ入行。

ここでも多くの苦戦をしたそう。

仕事ができないことの不甲斐なさと、辛くなるほどに怒られる日々。

「毎日仕事に行くのが嫌だったです。めちゃくちゃ嫌だった。」

ところが、転勤とともに営業に職種が変わると、状況は改善していった。

「営業という仕事が自分に合っていたのか、仕事が楽しくなって。」

トーンが高くなったその声から、当時の心境の変化が伝わる。

仕事を楽しめるようになって数年、さらなる転機が訪れる。

「銀行で営業してたので、いろんな会社を担当して、会社の2,3代目の社長さんと話すことが多かったんです。」

人間関係が築けたお客さんと雑談をしている中で、地元・大牟田に家業がある話になった。

「継がないの?って聞かれたんです。」

当時は地元に家業があって、自分が長男であることはわかりつつも、両親からは何も言われたことがなく、深く考えてこなかった。

「30歳なら、もう遅いぐらいっていわれて。」

そんな言葉がきっかけになり、他のお客さんにも聞いてみた。

「早く帰ったほうがいいよ。現場も経験しないといけないし、社員とのコミュニケーションも、若いうちから一緒に積み上げていく必要があるんじゃない?」と。

「確かにって思ったんです。」

思いもしない展開で、地元へ戻り、家業を継ぐことを決意した白石さん。

「銀行では成績も上げられるようになっていたし、分からないことも無くなりつつある。そんな年代に差し掛かってたタイミングで、また0からスタートすることを、自分で決めて帰ってきたから良かったと思ってるんです。」

東京での大学生活、一人で奮闘した時間が自分で考えて動く姿勢に活きたのかもしれない。

「大牟田、なんか好きなんですよね。」

噛み締めるように話す言葉からは、地元愛が溢れている。

「なんか好き」に強い理由はない。

「地元だからですかね。」と笑う白石さん。

現在は、家業だけでなく、大牟田青年会議所での活動にも力を入れているという。

「青年会議所っていうのは、ボランティア団体とか慈善事業団体とはちょっと違って。」

「奉仕・修錬・友情の三信条っていうのを軸にいろんな事業を起こしてるんです。会費で集まったお金の範疇で、地域活性事業や青少年育成事業など地域をより良くしていくための事業運営をしている団体なんです。」

毎年役職が変わる青年会議所で、白石さんは今年、理事長として1年間務める。

毎年役割が変わり、毎年やることも異なる。

「自分のミスも、あのときのおかげで、ものすごく成長したなって感じることがあるんです。以前の自分だったら考えもしないような発想が生まれてくる感覚。」

銀行員時代、何回も怒られながら、ときには泣きながら苦戦していた時期があったからこそ自分が成長できたと思えるようになった。

今も、その成長する感覚を大事にしているそう。

「青年会議所では、毎年新しいことに挑戦するので、その成長が毎年来る。それってすごいなと。来年が何の役職なのかな?を楽しみに、何でもやりますっていう気持ちです。」

毎年、新しいことに取り組む。

そんな気概をどう持ち続けているのか聞いてみると、魔法の言葉を教えてくれた。

「やってみらな、わからんめーもん!って、唱えるんです。」

「やっぱりね、人間動くまで時間かかりますよ。でも、新しいことやったら間違いなく何か得られるんで。それはどこかで分かってるんです。」

「だから、やってみないとわからん!って、唱えて動いてます。」

そんな白石さんの言葉に、優しさと強さをみた。

家業と青年会議所の活動を通して、地域に触れ合う機会も多い白石さん。

大牟田を離れる前と帰ってきてからでは、街に持つイメージが変わったそう。

「大牟田って幼い頃は何もない街だとか、衰退していく街だって思ってたところは正直あったんです。でも、そうじゃないんだなって、大人になってから分かったんです。外に一回出て、意外と大牟田を知ってもらってるってことがわかって。そういう意味で見方は変わりましたね。」

「大牟田の歴史や文化ってすごいなと思ったし、大牟田に世界で活躍する企業が多くあるということを知れば、街の人たちも大牟田をもっと誇りに思えるんじゃないかなって本当にそう思ってます。」

人が減って、いろんなものが無くなっていく時代に大牟田で育った白石さん。

ただ、その栄えた時代が、この地域のピークとは限らない。

「今やっている仕事を最大限大きくしていきたいっていうのもありますし、この街を良くしていきたい。そして、『白石自動車で働きたい!』って、言ってくれる人をたくさんつくれたらいいなと。それに向けて、がんばるだけです。」

多くの苦労にぶつかりながらも成長を実感し、一歩ずつ前進してきた白石さん。

大牟田の未来を見据えたその言葉からは、かつて多くの人々の夢と希望を乗せて走った三池炭鉱専用鉄道のように、まっすぐに前進する白石さんの人柄が伝わってくる。

三池炭鉱専用鉄道の起点となったこの地からはじまる、新しい大牟田の未来に胸が高鳴った。

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