磯の香り、道端のあいさつ、静かな夜。 旬の食材、真っ赤な夕焼け、おちつく言葉の抑揚。 「魅力」という言葉で語るには、ちょっと地味。けれどもじんわりあたたかい、日常のひとときや、何気ない風景。 そんな“長崎県の当たり前”を、全4回にわたってお届けします。 まだ長崎を知らない方の目には、新鮮に。縁ある方の目には、懐かしく映るものもあるかもしれません。どうぞのんびりと読んでみてください。 宿ののれんをくぐり、奥のキッチンに向かって挨拶すると 「やっほ〜」 と、肩の力が抜けるような声がかえってくる。 ここは、さいとう宿場。齊藤仁さん・晶子さん夫妻が営む、全3室の小さな宿だ。 眼前に大村湾が広がる千綿駅の改札から歩いて2分(ダッシュで30秒)。空き家になっていた「恵比須屋御旅館」を1年かけて清掃・リノベーションし、2019年にオープンした。「あたたかくて、海が見えて。お酒を飲んだあとに帰らなくていい場所がほしかったの」まさにこの場所で、晶子さん(通称:あっこさん)はその理想を叶えたんだなあ。「でもね、ひとつ盲点だったのは寒いこと。南に行けば暖かいだろうと思ったけど、そんなことはなかった(笑)。同じ九州でも、鹿児島とか宮崎とはやっぱり違うよね」もともとは東京出身のあっこさん。夫の仁さんは大阪出身で、ふたりとも長崎には縁もゆかりもない。50歳の節目に、勤めていた東京の会社を早期退職。四国や九州を転々とめぐり、辿り着いたのが東彼杵町(ひがしそのぎちょう)だった。「本当はサーフィンがしたくて外海に行きたかったんだけど、ここは利便性がよかったんだよね。実家に帰るときに空港へも近いし」長崎空港へは車で25分。高速道路のICもあって、たしかに交通の便はいい。それに何より、景色がよかった。外海とつながる開口部がとても狭い大村湾はふだん、ほとんど波が立たない。おだやかでありながら、その水面に映る景色は毎日違っていて飽きないという。「富士山を毎日見る人の気持ちが少しわかるよ。東京の実家に帰ると、空も狭いし、すぐ何かに視線がぶつかる感じがある。最近は視界が開けているとほっとするようになったかな」青く染まった空と海に、対岸の山々の緑が映える。夕焼け時にはそれらが赤く染まり、小さなまちの光がぽつり、ぽつりと灯ってゆく。バーン!とひらけた外海とはまた違う、凪いだ内海ならではの風景が広がっている。「東京にいたときからずっと、海の近くに住みたいって言ってて。試しに1週間、海辺の知り合いの家を借りて住んだこともあったの。最寄り駅までバイクで行って、そこから新宿の会社に通って……。あまりの不便さに、やってられない!と思って」「今は憧れのオーシャンビュー。キッチンの上に寝室があって、部屋から目の前に海が見える。朝起きたらカーテンの隙間から覗いて、今日の海と天気をなんとなく見る。あの時間はけっこう好きだな」本を読んだり、パソコン作業に集中したり。内側に意識をぐーっと向けてふと、顔を上げたとき、なんとも言えずきれいな光が窓から差し込んでいたりする。あっこさんはすぐさま外へと駆け出し、スマホでぱしゃり。そしてSNSやLINEで、身近な人たちにその美しい景色をお裾分けしている。毎年8月は、宿の繁忙期。今年もやっぱり「めちゃめちゃ忙しかった」そうだ。「9月はそのぶん、毎週のように遊びの予定を入れてゆっくりできているかな。先週は長崎市内のビアガーデンに行って、今週は波佐見町にある知り合いの宿『ONIWA』に泊まって大宴会。“人参ぶら下げる”じゃないけど、自分のなかで緩急つけながら楽しんでます」夫の仁さんは、お茶農家さんの手伝いをしながら。あっこさんは、地域のお店でアルバイトをしながら、この宿を切り盛りしている。週に2回は、車で5分ほど離れた自然派カフェ「海月食堂」でのアルバイト。立ち上げからほとんど途切れることなく、7年間にわたって続けているそう。以前は長崎や佐世保など、都市部への移動で通り過ぎる人が多かった東彼杵町。ちょうどおふたりが移住してきたころからまちづくりが活発になり、この8年間で25以上のお店がオープンしている。あっこさんはこれまで、フレンチレストランやラーメン屋さん、小学校や茶工場など、町内10ヶ所以上で働いてきた。「とくに立ち上げのときって、絶対に回らないと思っているから。ボランティアみたいな感じで『ちょっと手伝いますよ』って言うと、そのまんま仕事になる。『ふたつ星』のおもてなしも、その延長線上なんだよね」週4日、16:20〜16:30の10分間、千綿(ちわた)駅に停車する観光列車「ふたつ星」。駅舎のなかにある花屋さん「ミドリブ」と一緒に、乗客のみなさんのお迎えとお見送り、そして停車中の物販にほぼ毎回参加しているという。この日もおもてなしがあるということで、同行させてもらうことに。「3人だからちょうど被れるね」と、「ち」「わ」「た」と書かれた帽子のうち、「ち」の帽子を手渡された。「いらっしゃいませ〜。そのぎ名産のお茶、お土産にいかがですか〜」明るい声がホームに響く。宿や接客、おもてなし。人と関わることが、きっとあっこさんにとって何よりの喜びなんだろうなあ。「まったく人と関わりたくないときも当然あるよ」宿に戻り、おもてなしの様子を見ていて感じたことを伝えると、意外な答えがかえってきた。「新しくできたお店に行くのが好きで。そこの人と仲良くなったり、宿のお客さんに紹介するためのリサーチでもあるんだけど、人と関わりたくないから行く場合もあるんだよね。新しい場所だから、知り合いもいなくて一人でぼーっとできるし」移住当初は、住みびらきや子ども食堂をしたいと思っていたそう。実際に、長崎で住みびらきを実践しているところへ見学にも行った。けれどリアルに想像してみると、自分たちにはむずかしいことがよくわかった。「常に、っていうのがダメなのね。この時間はお客さんのため、この時間は自分のためってはっきり分けないと、疲れちゃう。カフェや飲食みたいに人を待つのも苦手だから、完全予約制の宿が自分たちには合ってたんだと思う」宿もやりつつ、地域のお店でたまにアルバイトもする。職住一体でありつつ、仕事とプライベートのメリハリはつけて働く。人との距離感や、時間やお金の使い方。自分に合う形を探るなかで、今のあっこさんのスタイルはできあがってきたんだな。かつては海外に住みたい時期もあった、とあっこさん。以前勤めていた会社の交換プログラムで、シンガポールに3ヶ月滞在したことも。「でも住んでみて、やっぱり日本がいいなって思った。言葉も通じるし、食べものもおいしいし。四季があるのは大きいね」夏は暑いし、冬は寒い。それぞれのつらさがあるけれど、そのぶんだけ、新しい季節がくるとうれしい。そんな四季の喜びをあっこさんが強く感じるのは、「食」から。「味覚は気づきやすいよね。とくに道の駅。柑橘の季節が来たなとか、銀杏が出てきたから拾いに行かなきゃ、とか。銀杏はたくさん落ちてるところがあって、近くの人に聞いたら『誰もとる人おらんからいいよ』って」宿の裏手には、いちじくが生っている。収穫してジャムに加工し、ふたつ星のおもてなしで販売したり、何かもらったときのお返しに渡したり。年に1、2回滞在しにくるカヤックプレイヤーのおふたりは、いつも釣ったばかりの立派な魚を差し入れてくれる。あっこさんたちは、場所とお酒と料理を提供。宿が忙しくなってきて、以前のようには開催できていないものの、おいしい食材や楽しい人たちが飛び込んできたら話は別。宿場は酒場になり、楽しい宴会のはじまり、はじまり。写真提供:齊藤晶子さん旅人と四季が新しい風を吹かせ、愉快に続いてきた宿の日々。これからについては、どう考えているんだろう。「たぶん前は『この場所がなくなっちゃうのはもったいないし、継承したいと思ってもらえるぐらいの魅力的な宿にしたい』と思ってた。けど、それって5年で宿をやめようと思っていたときの感覚で」今はそれも抜けて、安定している感じ?「そうそう。違うことをやりたくなるんじゃないかとか、実家はどうなるんだろうとか、そんなわからないこと考えてもしょうがない。何か起こったらそのとき考えればいいし、もっと流れに身を委ねてもいいと思うようになったかな」植物に水を、メダカには餌をやり、旬の食材をもらったり、お裾分けしたり。窓を開けて空気を入れ替え、週に数日は公営のジムに通う。楽しい宴会も、疲れたら自分のペースでスッと引き上げる。まちに訪れるお客さんをもてなし、一人になりたいときは、本を抱えてどこかの店へ。そして毎朝、カーテンの隙間から海を覗き、齊藤家の一日がはじまる。さいとう宿場https://www.saito-syukuba.com/くじらの旅チャンネルhttps://kujiranotabi.com/